minnesotakkoの日記

国際遠距離介護の記録

ムスメとピアノ

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音大ピアノ出身のハハのもとに生まれたムスメには4歳からスパルタ教育が待っていた。ハハの果たせなかったコンサートピアニストへの夢がムスメに託されたのだった。

その厳しさは3歳年下の弟を夜驚にさせたほど、厳しかった。

チチもハハの友人も口を揃えて、自分の夢を子供に過剰に託すのはよくないと言っていたが、ハハは耳を貸さなかった。

音中を受験して合格できる実力があるのか判断してもらうために、偉い先生の所に連れていかれたのが小学6年生の頃だったか?ベートベンのピアノソナタ1番を弾いたことだけは覚えている。その偉い先生が「音中に入学したらこの子の良いところが潰されてしまう」と「才能がないからやめときなさい」とは言わずに忠告してくれた。

ハハはそれが気に入らなかったのか、音中受験は諦めたがものの、音高付属のある普通科中学への受験を決めた。今は芽が出ていなくても、高校受験の頃には才能が開花するかもしれないと願ったのだろう。

 

一方のムスメはピアノの練習から解放されてこれほど嬉しかった日はなかった。

それ以後は練習したりしなかったり、音高など目もくれず、ハハの過干渉からも解放されて清々していた。

 

そんなムスメがひょんなことから留学先のアメリカでピアノのレッスンを受けることになったのは30年以上も前のことだ。

アメリカのレッスンは日本で受けたどんなレッスンよりも意義深くて、喜びにあふれるもだった。ピアノは鍵盤の上で指の動かすものだけではない、と知ったのは初めてで最初のレッスンから16年も経った後のことだった。初めて音楽というものに触れたのだと思った。それまではいかに正確に指が動かせるかという一点のみしか知らなかった。技術至上主義の教育しか受けて来なかったからだ。指は動くけれど、それは運動であって音楽ではなかった。

 

それからは音楽としてのピアノに向き合えるようになった。上手にはならなかったけれど、音楽を愛する生活をしている。音楽家にならなかったことに1ミリの後悔はない。が、音楽の喜びが私の生活の中にある。

 

物心つく前からピアノの厳しい練習を強いられていたムスメはハハとは友好な関係が築けなかった。ハハのムスメに託す夢はピアニストから、(安定した職業を持つ)男性と結婚すること、可愛い孫を産むこと、ハハの介護ヘルパーになること、と夢自体は変遷しつつも、夢を託される関係は今でも続いている。

 

ハハにもピアノの喜びがあればいいのにと思う。音大出身の技術はあるのだから、成績のためでなく、競争のためでなく、心から楽しんで弾けるピアノがハハの生活にあればいいのに、とムスメは思う。