minnesotakkoの日記

国際遠距離介護の記録

ハハ、混乱する

だるそうな声をしたハハが電話に出た。

 

頭がひどく混乱しているのだと言う。

クラス会があったらしいけど、その予定がどこにも書いてない。手帳にもカレンダーにもないし、欠席の連絡したらしいけど覚えてない。

貸金庫の鍵をやっと見つけたけど、それをどこに仕舞ったか覚えてない。

印鑑証明はどこに行けばもらえるの?

 

そして自分で言う。

今が過渡期なの。ここで頑張って一人で暮らしていけるようにするか、ダメになるか分かれ道。ずっと独身のお友達はね、自分でこういうことを手当てしながら生きてきてるからしっかりしてるの。私みたいに急に一人になったのとはちがうのよ。

 

ムスメもムスコも自立心が旺盛で家を出てから20年以上経つ。チチが老人ホームに入居して5年になる。けれどハハの中では「急に一人になった」のだ。

ムスメが渡米したのが1年半前だからか?

 

 

ハハ、介護認定面談を受ける

介護面談の前日、ハハと話すことができた。

 

ハハは、明日は”業者”が来る日だと思っていた。ムスメはとぼけて「ケアマネさんが来るんじゃなかったっけ?」と言っておいた。

 

誰が来るんでも構わない。その日その時間に家に居てくれさえすればいい。

 

当日はムスコが同席してくれた。

 

正式な結果がでるのはもう少し先だが、要支援2又は要介護1になるのではないかという。ヘルパーとナースの訪問が週1回ずつになる予定だそうだ。

 

ハハは人が来るのは面倒だと言うが、それには慣れてもらわなくてはならない。

 

 

ハハ、茶話会デビュー

やっとハハと話すことができた。

 

地域のあんしんすこやかセンター(支援包括センター)が主催している茶話会に行ってきたそうだ。ご近所づきあいをしてこなかったハハにとっては敷居が高かったようだが、ケアマネさんに誘われて勇気を出して行ってみたら、そこそこ楽しかったらしい。

 

コーラスにも顔を出したら、伴奏のアコーディオンを弾いているのが、チチの従姉妹のご主人だったそうだ。

 

近所に行ける場所があると分かって少し嬉しそうだった。

そこでピアノを弾いたり、抹茶をたてたりする機会ができてくれば必要とされる居場所ができるかもしれない。認知症の進行具合との競争だ。

ムスメ、電話すれど

ムスメは再びアメリカへ。時差は14時間。

 

時間をみつけて電話するも、いつでも留守電になっている。家に閉じこもっていないのなら、よい傾向だと思うようにした。

 

ムスメとの連絡が楽になるようにとiPad miniに色々設定してきたのだが、失敗だった。

パソコンもできないのに、やはり敷居は高かった。

まずタッチパネルとの相性が最悪なのだ。強く押しすぎるか、長く押しすぎるか、ちゃんと押してないかのどれかになってしまって、文字入力はえらく時間がかかる。

国際電話が安くかけられるように設定してきたのだが、アプリケーションを立ち上げるところから困難なのだ。

 

これだけテクノロジーが発達しても、使いこなせなければないも同然だ。電話もファックスもパソコンもスカイプもラインも何でもあるのに。

 

 

 

 

 

 

ムスメ、泣く

ムスメの一時帰国も残すところ1日となった。明日の夕方には空港へ行かなければならない。諸々の用事を済ませ帰宅すると、ハハも帰宅したところだった。

とても楽しい買い物ができたのだと言い、3つのゴムボールを嬉しそうに見せた。

 

「ね、ボールって楽しいでしょ?ほんとは20個でも買いたかったけど3つで我慢したの」

 

アンパンマンのキャラクターがついたピンクの20センチほどのボールだった。

 

ハハよ、孫がボール遊びを喜ぶ年齢はとっくに過ぎているんだよ。ガラクタを増やしてどうするんだよ。ボールを買っても、どれだけお金を使って買い物しても寂しさを紛らわすることができるのは一瞬なんだよ、と怒りたいのをこらえた。

 

出発の日、チチの妹(ムスメの叔母)が会いに来てくれた。空港まで見送りに来てくれるという。久々の再会を喜んだのだが、何かが違う。すべてがとてもゆっくりになっている。たくさんの荷物の中からきちんとラッピングされたものをいくつも取り出しながら、これは誰のために買ったのか忘れちゃった、とにこやかに言った。

ああ、叔母もそうなのか。叔父と電話で話した時に「ちょっと変」と言っていたのはこのことか。

 

空港への向かう電車の中で叔母は死んだ息子(ムスメの従兄)の名前を口にした。ムスメと同い年で大学生の時にバイクの事故で亡くなったのだった。「死んだって分かってるんだけど、今なにしてるのかな?って思っちゃうの。しばらくすると、そうだ死んだんだって思い出すんだけど」と言った。

 

空港に着いてハハと叔母は遠足に来た小学生のように楽しそうだった。時間が少しあったのでアイスクリームを一緒に食べた。

 

お土産を誰に買ったかは忘れても息子の死は忘れられない叔母、誰かと一緒に楽しくボール遊びがしたいハハ。

 

ゲートへ進み、セキュリティー、出国手続きを済ませるとムスメはトイレに入って泣いた。なぜ辛いことは忘れなれないんだろう。なぜ寂しさは忘れられないんだろう。

 

 

 

 

 

 

ムスメ、電話する

日本にいられる時間は着実に残り少なくなっていく。ムスメにできることには限界がある。ハハの様子をみていると問題はハハのワガママという一言で片づけられるような単純なものではないと思えた。昨日できていたことが今日できないのだ。

だからといって、老人ホームやグループホームという段階ではないように思えたし、ハハもそれを望まないだろう。ケア付きマンションも考えたが、ハハの現在の混乱っぷりを考慮すると、変化に適応できるか疑問だ。

ムスコ家族との同居は論外。物理的にスペースが足りないし、どちらの側にとっても犠牲が大きすぎる。

 

とりあえずはは孤立させないことが最優先課題だと判断した。

 

まずはケアマネさんに会い、ムスコの携帯番号とムスメのメールアドレスを伝えた。

近所のかかりつけ医に挨拶に行き、状況を説明した。介護認定のための意見書を書いてもらうことになるからだ。

 

ハハの兄弟たちに電話した。

ああ、どこにもかしこにも介護問題の波がひたひたと押し寄せている。

チチやハハだけでなく叔父叔母もそれぞれの困難がある。

 

ああ、歳を重ねていくということはこんなに大変なことなのか。

デイケア、ケア付きマンション、老人ホーム、要介護度・・・・・子供の結婚・孫の誕生・入学式・卒業式という話題はもうそこにはない。

 

そして、ムスメ・ムスコの世代は大きな決断をしなければならない時が来るのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ムスメ、家中にメモを貼る

ハハの状態がどうなっていくか分からない。どんな支援が受けられるかも分からない。

まだ字が読める、日にちが分からくても新聞や携帯電話を見ればいいということは分かっている。

ならば、何でも書こう!

 

ケアマネさんの名前と電話番号は携帯に登録したけれど、いざという時に名前が出てこなかったら電話ができない。

大きな字でケアマネさんの名前と電話番号を書いて、電話のそば、トイレの壁、ベッドの壁にペタペタと貼った。

父の老人ホームの電話番号と電車の乗り換えを書いた紙も貼った。車のカギはもう家にはない。電車で行ってもらうしかないのだ。

薬、ごみの収集日、DVDプレイヤーの操作法・・・・何でも書いた。

 

家中メモだらけになったが、毎日見てくれれば記憶に定着するかもしれないと希望をこめて書いた。