ハハの血液再検査の結果
甲状腺刺激ホルモンの値が低すぎる結果が出ていた。再検査の結果は問題なしだった。
老人ホームがよっぽどストレスだったのでしょう、というところに落ち着いた。
CTスキャンを見せられて、これだけ萎縮がありますと説明を受けたムスメとしては、今更、認知症の症状が甲状腺の異常が原因かもしれないと言われても信じられなかった。
が、正直なところ、ハハの物忘れや物盗られ妄想が脳の萎縮ではなくて他にあればいいのにと願っていたことも事実である。
脳の萎縮は止められないが、甲状腺だったら治療可能かもしれないと思ったからだ。
思った通りにならないのが介護である。おそらくハハも同じ気持ちで子育てをしたのだろうとムスメは思った。
ハハの物忘れ外来 血液検査の結果
甲状腺刺激ホルモンの値が低すぎるとの結果が出た。
コレステロールも中性脂肪も血糖値もやや高め、肝臓の値もやや高めという結果で、アルツハイマー型認知症という診断書は、現段階では書けないとのことだった。
甲状腺専門医のところで、甲状腺の異常と物忘れの関係がないと立証されないと認知症だという診断書は書けないのだという。
じゃあ、CTスキャンで萎縮が認められるというのは何だったんだろうか?
2年前の大学病院の結果はアルツハイマー型認知症だったのだ。それも何だったのだろうか?
甲状腺と物忘れの関係は調べてみる価値がありそうだ。
ハハとムスメ
ハハが友人達と会いたくないと言い張った理由の一つが、いつも私ばっかりに負担が押し付けられているという思いがある。
自宅を訪ねてくる場合には、場所を提供するのも、ご飯の支度をするのも、お茶とお茶菓子の用意をするのも、後片付けをするのも、全部私ばっかり。
外出する場合には、ご飯食べる場所を決めるのも、その後のお茶の場所を決めるのも、会話の話題を提供するのも、全部私ばっかり。
というのである。
これを聞いて、ムスメはドキリとした。
ムスメも疲れて余裕が失くなってくると同じように感じることがあるからだ。
ハハのようになりたくないと生きてきたムスメだが、結局はハハのムスメなのである。
ムスメの帰国後は
ハハの朝に電話をするようにしている。朝7時から8時の間に電話できれば、ハハに今日の予定を確認できるからだ。
ともかく毎日デイホームに行く、ということが定着することが最優先課題である。
まだまだ何をしていいかが分からない朝が続いているが、老人ホームと混同することは少なくなってきている。デイホームに毎日行くことが定着するには、時間はそんなにかからないだろう。
問題は、お金に対する執着である。
ムスメが財布に入れた現金はもうないし(おそらくムスコに盗られないようにするためいどこかに隠したのだろう)、太陽神戸銀行の預金通帳がないことが最大の不安である。いくら銀行にあるか分からないのが不安なのと、ムスコが盗んで使い込んでいるという妄想とが混在していて、なかなか手強い。
ムスコがお金を盗んでいるわけではないことと、デイホームに毎日行くお金があることは何度も繰り返して言っているのだが、聞き入れてはもらえない。
ムスメの一時帰国最終日、ハハの帰宅14日目
ムスメのフライトは16:30だから、家を出るのは13:30だった。
ハハは見送りに来たがったが、空港から1人で帰れないだろうし、デイホームに行っていた方が気が紛れていいと思い、朝はいつも通りに送り出した。
ムスメがアメリカに帰るというのは分かっていても、普段通りにしているハハだったが、迎えに来たデイホームのスタッフが「娘さんは今日で帰っちゃうんですよね」と言った途端に泣き出した。
それからムスメはデイホームの施設長さんに電話をして、夕食の手配など細々としたことを確認して、買い出しに出掛けた。
冷蔵庫を開けた時にすぐに食べられるものをストックしておくためだ。ヨーグルトやプリン、牛乳やリンゴ、お煎餅やキャラメルなどハハの好きそうなものを選んだ。
ついでにトイレットペーパーやティッシュペーパーも補充した。
ハハの財布の中に少しばかりの現金を入れ、予備費とした。どうせすぐどこかに隠して失くなってしまうのだけれど。
部屋とトイレの掃除をして、台所のガスを止めて、ご近所に挨拶をして、ムスメは空港へと向かった。
とりあえず、老人ホームから自宅へ戻り、元の生活には戻れるだろう。毎朝、デイホームに行くことを電話で確認すれば、もう少しの間は1人で生活はできるだろう。老人ホームから出て自宅に戻っても、お金をムスコに盗られた妄想は止まらないだろうし、ムスコに対する不信感や不満や怒りはおさまらないと予想していた通りだった。
何が正しいかなんて誰にも分からない。
そう言い聞かせて、ムスメはアメリカに戻った。
ムスメの一時帰国13日目、ハハの帰宅13日目
今日は日曜日、イタリアから来日中のムスメの従姉妹と中華街でランチに行く予定だった。ムスメの叔父(従姉妹の父でハハの義理の兄)もくるし、1日中家にいてもお金の不安に付きまとわれるだけのハハである、何としても連れ出したかった。少しでも目先の風景を変えたかった。
案の定、ハハは不機嫌である。出かけるなんて聞いてない(←いやいやずっと前から言ってあるでしょう。カレンダーにもちゃんと書いたでしょう)、お金がないから電車賃もない(←いやいやムスコがお金くれたでしょう。財布にちゃんとはいってるでしょう)、となだめすかし朝食を食べて、洗濯や掃除をして、何とか中華街へと連れ出した。
道すがらも話すのはお金の不安とムスコに対する不満ばかりだったが、さすがに電車の中では声を荒げることもない。まだまだ他人の目は意識できるようだった。
ランチは美味しかったし、従姉妹にも叔父にも会えたし、ハハも楽しそうだった。帰宅した頃には誰に会ったのかも、どこへ行ったのも忘れていたが、それでいい。楽しかったという思いはどこかに残るだろう。
ムスメの一時帰国12日目、ハハの帰宅12日目
親戚の集まりに行った。
後期高齢者となった親の代とその子供達の代、つまりハハの兄弟とムスメのいとこ達の集まりだった。
ハハの兄と妹も認知症である。いとこ同士の話題は認知症の親の介護で持ちきりである。
ハハは久々に妹と会えて嬉しかったようだ。楽しく飲んで食べて話して夜はふけて行った。ハハの兄は残念ながら欠席だったが。こうやって集まれる時に集まっておきたいと、子供の代は感じていただろうと思う。
帰り道、ハハは集まりに出席したことを忘れていた。会がお開きになってムスメと2人になった途端に、ムスコへの不満をとうとうと述べ、
私が死んでもあの子には絶対に連絡しない、と言った。
死んだら電話できないよ、と言いたかったが、逆ギレされても面倒なので黙っておいた。それだけ自分のムスコが憎いのか。
弟が不憫でならないムスメであった。